私はストーリーメーカーであり、裏方であり、何よりプロデューサーである。
特にプロデューサーというところは強調しておきたい。
今回は何故私がプロデューサー道を歩むことになったのか、そんな話をしていきたい。

元々ライトノベルが好きだった私は、小学校の頃は本気でライトノベル作家になるつもりだった。
でもユーミン(松任谷由実)好きが高じてユーミンのラジオを聴くようになってからは、すっかりラジオリスナーとなり、夢もラジオDJになっていた。
大学は好きな科目だった地理(学校の先生にもなりたかった)か、日大の放送学科か、中学生の頃から本気で悩んでいたぐらいである(早い…)。

高校は自分の希望とは異なる学校に進んだ私。
私学でこれまで過ごしていた公立とは環境は一変したのに加え、地理の授業がなくブーブーいっていた私だが、唯一の希望は放送の部活があったことである。
うちの母に猛反対されるも、速攻で入部した。
しかしアナウンサーは体力増強が求められ、ひどい運動オンチの私は苦戦…。
それでも数ヶ月後には普通に礼拝(キリスト教系だったので)や昼の校内放送など、普通に喋っていた。

そのうち喋るだけではなく、自分で番組を作るようになっていた。
小学生の頃のストーリーメーカーが蘇ってきたのか、それともラジオリスナーの血が騒ぐのか、週1本の番組を何の苦もなく台本を書き上げ、上級生に喋ってもらっていた。
そして思うのである。

自ら喋るより、作って全体をプロデュースするほうが楽しい、と。

それに輪をかけたのが、高校2年のときに私が作った作品が県大会のラジオドラマ部門で3位をいただいたことだった。
自分の高校で受賞は数年ぶりの快挙。
色々な人に褒められたけど、それよりもプロデュースすることの手ごたえを強く実感した出来事だった。

もちろん、順調に部活を過ごしていたわけではない。
OBが厳しい部活だったこともあり、その厳しさのため辞める人が多かった。
3年の後半には部員が自分だけになったこともある。
時には放課後の放送室を自習室代わりにして受験勉強しながら校内放送をし、放送機材を自由に扱える特権を利用し、自分の卒業式前に流すスライドを仲間と作っていたりもしていた(それをしたいがために卒業式関係の委員をやった)。
自分がプロデュースする場でもあった放送室だが、同時に3年間クラスに馴染めなかった私の数少ない居場所でもあったのだ。

結局大学はDJの道ではなく、好きな地理のある大学に進んだ。
でもあの高校でのプロデューサー経験は、関係のない地理に進んでも、社会人になっても、大きく生かされることとなった。

・大学、大学院在学中に企画したイベント数知れず
リーディングファシリテーターとして読書会20回ほど開催
・とあるお祭りのプロデュース
・見切れ写真師範としての講座開催
テーマパークコンサルタント

プロデューサーとしてだけでなく、そこで培った経験があらゆるところで生かされている。
自分がプロデューサー魂をあそこで身につけたおかげで、本当に今があるなぁ。